まえがき~人間関係の考え方(拙)

 

一種の決意表明として。  

 


馬鹿には何を話しても無駄だ、とずっと考えていた

馬鹿と共生する必要がどこにあるのか、と

今でもその考えを全て捨て去ることができた訳ではないし、今もそう考えている人間を、否定するつもりもない

ただ単純に、私の生き方として、そういうのはもう、終わりにしようと思った

 

人との信頼関係を築くために、「時間」のことをより意識したい

信頼や仲間は、出会うものではなく育てるものだった

 


    吉本隆明は青春期について太宰治を踏まえ、次のように話していた

 

「まあ、青春期の入りかけの頃っていうのは、生涯の中で唯一、なんかあった時にはお互い助け合える関係の友だちができる可能性のある時期だと思うんですよ。その時期を逃したら、もう、ちょっと不可能だと思いますね。」
「で、この青春期の入りかけの時期については太宰治が、学校の公演かなんかで似たようなことを言ってました。
その時期の友情のことを太宰は〈純粋ごっこ〉みたいなものだと言ってるんですね。〈純粋ごっこ〉とは人間と人間がお互いにどれだけわかるかということで言えば、もう骨の髄までわかった感じを体験できる時期なんだ、と言ってるんです。つまり、世間的、社会的には通用しない時期だからこそ〈ごっこ〉なんだけど、でも、心から自分以外の人をわかったというふうに思えるのはその時期しかないんだとね。
僕もそういう感じがしてるんです。だから、この〈純粋ごっこ〉の時期を除けば、結局、この世は全部ひとりひとりだよってことなんですよ。 」
「悪人正機」p.38 新潮文庫

 

大学生の頃の自分は、この文章をやけに意識し過ぎていたのかもしれない

俺はその時期を逃してしまった、と

 

本当の仲間とか、本当の親友、つまり心の底から分かり合えるような人に会いたいが、それはもう到底かなわないと思っていた、しかしこれはどうも、間違っていたようだ

 

人間関係を、共通性を通してしか、構築することが出来ないと思いこんでいた

(くだらない多様性の話をこれから展開するつもりはない)

 

趣味で知り合った関係にしても、たった数回のSNSの投稿で、勝手に失望したり、関わるべきではないと判断するのは、早計だったように思う

たかだか数年の間に築かれる信頼程度で、本当の…なんて、あり得るはずがないのに

 

信頼関係は、出会うものではなくて、育てるものだった

単純な事に気付かなかった

 

自然な時間(※)を、少なくとも今は出発点としたい

「同じ時を、この世界で生きている」という感覚

 

こんな事を書くと、現代ではスピリチュアルに聞こえるような話だが、しかし言葉や価値観を越えた自然感覚こそ、本来の基本的な人間関係の基礎ではなかったか

 

そう信じて生きていける人間になりたい

それができるかどうか、続けられるかどうかは、 わからない  

しかし、そういう生き方を、したい

そういう生き方を、してみたい

 

 

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

 

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
 
「農民芸術概論綱要」宮沢賢治
 

 


※補足

 

現代は、ひとりぼっちになることが許されていない

しかし、一人きりになることが出来ないからこそ、他人が仲間になることもまた、成り立つ事が出来ないのではないだろうか

それぞれに個性や独立した自分の意志が存在しながら、それらをよく把握し、受け入れ、尊重できる関係を築くためには、何が必要で何をすべきなのだろうか

 

およそアイデンティティーとか、人が独立した一個の存在としてあるためにはまず、差異が必要になるのは自明のことだ(他の人間とは違う、わたし、という意識)

差異は、他者がおこなう反応、反発、反作用によって確かめられるが、

共通性を核とする集団意識というものは、一方で個性や差異を隠蔽し、他人に対して反発や批判の意思、本音を表明することが悪いことだと考えられ、排除する方向にむかってしまう

 

人それぞれで思想は違うのに、共通した思想を有しているとか、それを志したりしているかのように、集団はフィクション(擬制)する。そのフィクションの維持のために内部にいる個人は差異による不満を蓄積し、ついには爆発したりして、その者は排除され、孤立化する

ひとは、独りでは生きていけないくせに、集団にはついに馴染むことができない

面倒くさい生き物だ

 

良い集団とはどんな集団なのだろう

集団が共有するものは、本来なにが一番ふさわしいのだろう

なにが一番、争いが起こらないだろう

 

「時間」ではないだろうか

自然な時間を、少なくとも今は出発点としたい

 

それは歴史ではない。歴史には意味がある

意味はそれぞれで異なった解釈や物語が付随してしまう。それでは駄目だ

そうではなくて、人間的な意味のまとわりついてくる時間意識ではなく、超越的な時間、

人間の都合の良いようにつくられたものではない環境を、前提としなくてはならない

「同じ時を、この世界で生きている」という感覚から始めたい

 

こんな事を書くと、現代ではスピリチュアルに聞こえるような話だが、しかし言葉や価値観を越えた自然感覚こそ、本来の基本的な人間関係の基礎ではなかったか

私の考えがカルト信仰の教義と違うのは、人間が実験や経験を繰り返して発見した自然の法則、つまり「科学」を無視するかそれを前提として思考を重ねるかどうかが、違っている